公的年金の年金額は、毎年、賃金や物価の変動などを考慮して改定されます。2021年4月の改定からは、そのルールの一部が見直されています。年金は老後の収入の柱となるものですから、毎年の年金額がどのようにして決まるのかは押さえておきたいところです。そこで、そもそも年金額はどう改定されるのか、そして年金額改定のルールがどう変わるのか、年金事情に詳しい社会保険労務士でファイナンシャルプランナーの井戸美枝さんに教えていただきました。
50歳以上の方であれば、毎年の誕生月に日本年金機構から送付される「ねんきん定期便」に将来受け取る予定の年金額が記載されています。しかし、それはあくまで見込み額で、実際の年金額は毎年見直されます。インフレ時などに年金の経済的価値を維持するためです。「見直しは2段階で行われています。現役世代の賃金や物価の変動を反映する本来の改定に加えて、2005年4月からは高齢化の進行や現役世代の増減により年金額の伸びを調整する『マクロ経済スライド』が実施されました。背景には、年金財政の悪化を受け、現役世代が負担できる範囲内で年金給付を調整するという意図があります」(井戸さん)。
年金額自体の計算方法も複雑ですが、年金額改定のルールもかなり込み入ったものになっています。まずは、その仕組みを見てみましょう。
第1段階の本来の改定は、賃金や物価の変化を踏まえたものです。賃金変動率は、今回のコロナ・ショックのような大きな経済変動の影響を平準化するため、2~4年度前の名目手取り賃金の平均などから計算します。物価は、前年の全国消費者物価指数の変動率を用います。
その上で受給者を「新規裁定者(新たに年金をもらい始める人)」と「既裁定者(既に年金をもらっている人)」とに分けます。原則として、新規裁定者は現役世代の収入の変化に応じた賃金変動率で、既裁定者は年金額の実質的な価値を維持するため物価変動率で改定が行われることになっています(賃金変動率の計算に2~4年度前の指標が用いられることから、その年度中に到達する年齢が67歳以下の受給者を新規裁定者、68歳以上の受給者を既裁定者として扱います)。
※物価変動率が賃金変動率を上回る場合は、賃金変動率に置き換える
第2段階のマクロ経済スライドは、社会情勢(平均余命の伸びや現役世代の減少)に合わせて、年金の給付水準を自動的に調整する仕組みです。「国はおよそ100年後に給付費用1年分の積立金を維持することを目標に、5年に1度の見直し(財政検証)を実施しながら、保険料収入など財源の範囲内で給付が行えるよう年金財政の均衡を図っています。このために導入されたのがマクロ経済スライドで、『公的年金全体の被保険者の減少率(実績)』と『平均余命の伸びを勘案した一定率』から算出します」(井戸さん)。
図表1 マクロ経済スライドのイメージ
マクロ経済スライドによる調整が行われ、年金額の上昇については、調整率の分だけ抑制されます。
賃金・物価の上昇率が小さく、マクロ経済スライドによる調整を適用すると年金額がマイナスになってしまう場合は、年金額の改定は行われません。
賃金・物価が下落した場合、マクロ経済スライドによる調整は行われません。結果として、年金額は賃金・物価の下落分のみ引き下げられます。
出所:日本年金機構
マクロ経済スライドはそもそも年金額の上昇を抑えるための仕組みですから、賃金や物価による本来の改定率がマイナスの場合は実施されません。マクロ経済スライドの制度が始まった2005年度以降はリーマン・ショックなどによる日本経済の低迷が続いたこともあり、16年間で発動したのは2015年度、2019年度、2020年度のわずか3回に過ぎません。とはいえ、2018年度以降は未調整分のマクロ経済スライドが次年度以降に繰り越される「キャリーオーバー」の制度が施行されており、今後はさらに年金額の伸びを抑制する要因になりそうです。
図表2 マクロ経済スライドのキャリーオーバー
金額の名目下限を維持
(現在の高齢世代に配慮)
キャリーオーバー分の調整
厚生労働省資料より作成
2021年4月から改正されたのは、第1段階の本来の改定率に関するルールです。「新規裁定者は賃金、既裁定者は物価にスライド」の項で改定率の基本的な仕組みをご説明しましたが、そもそも、これには例外がありました。
図表3 賃金と物価の変動率に応じていずれかを適用
パターン | 賃金と物価の 変動率 |
改定率 | |
---|---|---|---|
新規裁定者 | 既裁定者 | ||
a | 賃金 ≧ 物価 ≧ 0 | 賃金変動率 | 物価変動率 |
b | 賃金 ≧ 0 ≧ 物価 | ||
c | 0 ≧ 賃金 ≧ 物価 | ||
d | 0 ≧ 物価 ≧ 賃金 |
物価変動率(~2020年度) 賃金変動率(2021年度~) |
|
e | 物価 ≧ 0 ≧ 賃金 |
ゼロ改定(~2020年度) 賃金変動率(2021年度~) |
|
f | 物価 ≧ 賃金 ≧ 0 | 賃金変動率 |
※賃金変動率は2~4年度前の実質賃金変動率の平均×前年の物価変動率で算出
いずれも、「既裁定者の年金額の実質価値が目減りしてしまわないように」という配慮によるものです。しかし、2021年4月には「年金改革法(公的年金制度の持続可能性の向上を図るための国民年金法等の一部を改正する法律)」(2016年成立)が施行され、上記の例外的なケースでの対応が次のように変わっています。
この新ルールだと、経済成長下でも年金額が抑制されやすくなります。「近年は物価上昇率に比べて賃金上昇率が抑えられる傾向にあり、賃金が上がっていない中で年金額だけ物価上昇率に合わせる従来の仕組みは、給付と負担の長期的な均衡を危うくする恐れがあります。そこで、『年金額は現役世代の賃金の伸びに合わせる』という年金制度の基本に立ち戻ったルール改正が行われたのです」(井戸さん)。
図表4 公的年金支給額(月額)の推移
※新規裁定者の場合、★はマクロ経済スライドが発動した年
第1段階
物価変動率 | 賃金変動率 |
---|---|
0% | ▲0.1% |
適用変動率 | 改定率 |
---|---|
賃金 | ▲0.1% |
第2段階
ベース改定率 (第1段階で算出した 改定率) |
スライド 調整率 |
---|---|
▲0.1% | ▲0.1% |
マクロ経済 スライド 適用 |
最終 改定率 |
---|---|
繰り越し | ▲0.1% |
マクロ経済スライドについては、厚生年金の適用範囲の拡大により公的年金の被保険者数が0.2%伸びたため、平均余命の伸びを勘案した定率(-0.3%)を踏まえたスライド調整率は-0.1%でした。ただし、今回はマイナス改定のため適用されず、-0.1%は2022年度以降に持ち越されて、本来の改定率の-0.1%がそのまま最終的な改定率となりました。
図表5 2021年度の年金額(新規裁定者)
裁定者の条件 | 年金月額 (前年度比) |
---|---|
国民年金のみの加入で老齢基礎年金を満額受給する場合 | 6万5,075円 (-66円) |
厚生年金に加入する会社員の夫と専業主婦の妻のモデル世帯 (夫は平均標準報酬月額43万9,000円で40年間就業した場合) |
22万496円 (-228円) |
公的年金の大きなメリットとして挙げられるのが、
「①については今後も変わることなく、それゆえ、公的年金は老後の暮らしを支える柱たり得るわけですが、マクロ経済スライドや今回のルール改正により、②の物価連動機能にはあまり期待できなくなります」(井戸さん)。
近い将来、新型コロナウイルスのワクチンが普及しコロナ禍が完全に終息すれば、“自粛経済”の反動で消費が大きく伸び、経済が急回復すると予想する専門家は少なくありません。その場合は物価も上昇し、現役世代の賃金も伸びることになるでしょう。しかし、こうした経済拡大の恩恵は年金受給者には届かない可能性が大きいのです。
さらに、今後インフレになってモノの値段が大きく上がっても、年金額も同じように上がってはくれません。私たちはバブル崩壊以降、何十年もインフレを経験していないため、インフレへの警戒心が緩みがちです。ならば、次のようなケースを考えてみてはいかがでしょうか。
先の会社員の夫と専業主婦の妻というモデル世帯の毎月の生活費が20万円だとしたら、年金の月額は22万496円なので、家計は毎月2万円強の黒字です。しかし、仮に今後10年間に渡って年率2%のインフレが続くと10年後に同じレベルの生活を維持するためには約24万4,000円が必要となり、年金額が据え置かれたままだと毎月2万円強の赤字に転落してしまうのです。
現役であれば副業などで生活費の不足分を補うこともできますが、リタイア後は収入を増やす手段も限られます。「老後資金には、あらかじめインフレ下でも経済価値が維持されやすい金融商品を組み込んでおきたいもの。今のうちからiDeCo(個人型確定拠出年金)やつみたてNISA(少額投資非課税制度)の活用を検討したり、変額個人年金保険などで備えるといいでしょう」と、井戸さんは助言します。